何か吐いてみる//
乙式、主に暇人干身がだらだらと萌えに任せて吐き出す場所です。創作戦国について主に吐き出しています。同人、腐要素、注意報常時発令中です。
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2011/06/19 (Sun) 『イエズス会日本報告書』曰く


紀伊様の運営なさっている「萩の御前」様の記事にて、茶々の人柄に触れている史料が存在することを、初めて知りました。いつもいつも勉強させて下さり、有難うございます!
『十六・十七世紀イエズス会日本報告書』という史料がそれで、キリシタンである信長の娘が茶々と仲が良く、常に茶々の傍らにいたことから、人柄についても書き記されているらしいです。
何でも『十六・十七世紀イエズス会日本報告書』曰く、茶々は「善良な性格で」「喜捨や慈善事業に熱心」だったそうです。………ますます私の中の茶々のイメージが菩薩様になっていくんですけど………。特にキリシタンだったわけではなく、むしろ熱心な仏教徒だった茶々に対してそう記しているのですから、信憑性はあるんじゃないかなぁと思います。
そして、大坂の役の際、人質として大坂城に送られていた明石さんの次女「レジイナ」を可愛がっていて、戦が一段落したら、しかるべき所へ嫁がせてあげようと考えていたそうです。何となく、このレジイナが、浅井直政の奥さんになった人なんじゃないかなと、ちょっと思います。冬の陣が講和で落ち着いた頃に、茶々の取り持ちで直政とレジイナが結婚したのなら、辻褄が合うような気がします。直接、その史料を読んだわけではないので、何とも言えないのですけれども………ううう、読みたい。
残された行跡から推測して「菩薩のような人だったんだろうなぁ」と思っていた茶々の人柄が、当時の史料として「善良な性格の、喜捨や慈善事業に熱心な人」と書かれ存在していることは、とても嬉しいです。

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2011/06/05 (Sun) 破袋


 アニメ『へうげもの』自体は観ていないのですが、その後にやっている茶道具を紹介する5分間番組だけは地味に観てます。この間「伊賀耳付水指破袋」が紹介されていました。てっきり、関東大震災の時に紛失したと思っていたのですが、しっかりと保存されているようです。おおう、何と勘違いしていたのでしょうか………。「破袋」と一緒に保管されている織部から治房あての書状も紹介されておりまして、しっかりと宛名に「大主馬」と書いておりました。実はほんのり、主馬と修理間違ってんじゃないの?と思っていたのですけども、がっつり「主馬」でしたね。
 しかし、治長が織部主催の茶会に招かれた際「伊賀ものの水指」を持参したという記録が残されています。その水指が「破袋」だったんじゃ?と思っている身としては「この水指超良いもんだよ!」と織部から記された書状が、どういった事情で治房宛てに送られたのか気になります。元々治房のだったのが、治長所有になったのか、それとも、治長所有だったのが治房所有に変わったのかなぁ、とも思うのですが。悩みますね………。

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2011/04/11 (Mon) 我身者天下取之娘



糺が光秀の孫(かも)だと………!?
そのような記述が『天正記聞』(=『秀吉事記』?)という史料にあるそうです。紀伊様、本当にいつもいつも有難う御座います…! 正栄尼が浅井長政の庶子かもしれない、とも取れる記述をしている本(not史料)があるので、正栄尼は長政の庶子な可能性があるのねーと思っていたのですが、こういった記述のある史料が存在するとは驚きです。勿論、全てを鵜呑みにするわけではないのですが、しかし、完全に否定する要素もまた、私は持っていません。概略すると、こんな内容だそうです↓

「明智光秀の前妻は、近江永原城主・大炊助の嫡男、仁左衛門の娘だった。光秀とこの女の間には、娘が一人生まれた。この娘は後に秀吉家臣・渡辺昌に嫁ぎ、渡辺糺を生んだ。夫の死後、彼女は尼となり、正栄と号した」

 とのことです。糺や正栄尼の自害の様子も書かれているのですが、こことでは略します。また、この史料によると、
・正栄尼には、糺の他に、ツルという名前の娘もいた(=糺の妹or姉?)
・糺の妻は、牧村利貞の娘
 だそうです。
 とんでもない内容ですので、はわわわとなるしかないのですが、もしも本当だとすると、糺は光秀の孫であり、正栄尼はガラシャの腹違いの姉、ということになりますね………また、糺と興秋が従兄弟ということに。守還俗の働きがけに忠興の名前があったのは、ここら辺が関係していたりして、と妄想してみたんですけれども、違うような気もする← 
 「天海=光秀で、秀吉への復讐のために大坂の陣でハッスルしてた」というぶっとんだ奇説と「正栄尼は光秀の娘である」という説の合わせ技をすると、一気に大坂の陣が、いたたまれない親子の物語になってしまうような(…)
記事のタイトルは『天正記聞』で、正栄尼さんが言っていた言葉です。

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2011/02/22 (Tue) ちょろっと浮上


 あんまりにも寂しくて、顔を出してしまいました……腰ぬけと罵って下さい←
 紀伊様!励ましの御言葉有難う御座います!本当に、エントリーシートって鬼門ですよね。心がぽっきりいってしまいそうです。むしろ、手首がぽっきり(…) うん百字と「学生時代にがんばったこと」だの「自己PR」だの書いてきて、最後の最後で誤字をしてしまった瞬間、諸行無常を噛み締めました………しゅ、修正液つかいてぇええ!と何度叫んだことか!
 と、はい!愚痴はこの辺にしておきまして!
 テスト前にはやたらと部屋の掃除をしたくなる心理そのまんまで、部屋の本棚を整理していました。そろそろ本置き場兼寝床にしていたベッドに、私の寝るスペースが無くなってきたので、カオス空間になっている本棚の整頓しなくちゃなと!はい!この間、一般人の友達が部屋に来た時、本棚に入らずその辺に放っていた「すっぱだかの成人男性が首輪で繋がれてる表紙のBL小説」を目撃されて呆然とされたので、その辺も何とかしなくちゃなと!ええ!(良い笑顔)
 しかし結果は、本棚から出てきた今までの史料コピーを読み耽って終わる、という半ば予想出来ていたおちでした(…) 
 何かもう『落穂集』で家臣に愛されまくってる薄田さんにときめきが止まらない……というか「旦那」と家臣に呼ばれてる薄田さんが堪らない。この家臣達なら、薄田さんがあちこちで「橙武者」と笑われる度に激怒してそうな気がする。『落穂集』ですと、戦いが激化する前に、薄田さんは、ちょっくら又兵衛と話しがあるから、お前らそこで待ってろ」と、自分の備えを持ち場で待たせ又兵衛の元へ槍持ち一人だけ連れ行ってしまいます。又兵衛とお話が済んだ後(何を話したかは書いてありません。この後の展開を考えると、俺今日討ち死にすっからよろしく!とでも言ってきたのかもしれません)とある水野家の人と戦い、三人がかりで討ち取られました。しかし、薄田さんの死を知らない家臣達は心配になり「迎えに行こう」となるのですが、その時に「侍共我も我もと可参と申し」となったり、やってきた山川さんに「備えが乱れるのは良くないから、お前達はしっかりそこを守っていなさい」と言われても「旦那迎ひに参度由申候へは」つまり「旦那を迎えに行きたいんです、と言ったので」と家臣が言うなど、愛され度がはんぱ無いです。
 この『落穂集』ですと、薄田さんは戦いの半ばで討ち死にしたことになっています。そして史料によっては、又兵衛が討ち死にしたという報を聞いた後、又兵衛隊の生き残りを集めて戦ったとも言われています。これらを総合すると、
 「ちょっくら又兵衛と話してくるわ!お前らはそこで俺の帰りを待ってろよ!」と、自分の隊を置いて又兵衛の元へ→又兵衛と何やら話す→又兵衛隊の葉武者として又兵衛の下知の元戦う→又兵衛戦死の報を聞く→又兵衛隊の残ったの兵をまとめ、戦う→薄田無双→戦死 
 という流れなのかなぁと。つまり、薄田さんは道明寺の際、自前の兵は槍持ち一人だけだったと。結果『落穂集』では、薄田さんの家臣達は殆ど無傷のまま城へ戻るということとなりました。なんとなぁくの妄想ですが、後続の隊が来ず、負け戦になることを感じ取った薄田さんは、自分を慕う家臣や兵を死なせない為に、わざと残していったのかなぁ……と。ついでに、討ち死にすれば冬の陣での汚名もそそげると思ったのかも、な妄想です。あと(まだあるのかよ) 又兵衛と薄田さんの仲って良かったんじゃ?と考えている身としては、薄田さんは又兵衛の兵として戦って、死にたかったのかも、と。恋愛感情とかまったく関係無い「男が男に惚れた」という関係が、薄田さんと又兵衛な気がしてしまいました。
そんな「自分勝手で、可愛い家臣に死ねと言えない弱さがあって、でも薄田無双で、又兵衛に男惚れしたのかも?」な薄田さんにきゅんとした日でした。エントリーシートと本棚の掃除?何それ美味しいの?

では、また体育館裏に呼び出し喰らったんで行ってきます!

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2011/01/21 (Fri) 六角でだらだらと


 まだ大河の2話が見れていない干身です、こんにちは!
 暇を見つけては、政元謀殺辺りから始まる六角家のあれやこれやを纏めようと頑張ってはいるんですが、これっっぽちも進みません← あれ、何で伊勢の長野さん家と喧嘩してるんだっけ?あれ?みたいな。ですが分かったことは、六角意外と敵が多いってことでしょうか……いや、分かってたことですけども(…) 伊庭さんを潰して伊勢で長野さんと喧嘩して土岐氏の内訌に首突っ込んで、京極家の泥沼合戦に首突っ込んで中央の細川京兆家やら将軍を巡る戦いに首つっこんでむしろ全力で加担して本願寺をのりのりで焼いて浅井と殴り合って三好にぶち切れて時々将軍を見限ってみて、時々身内のいざこざに手を焼いて、と何か楽しそうですね(…)
 しかし、やっぱりテンションあがるのは、浅井とぎゃーすかやってる時です。中央の情勢に茶々入れまくってるのも楽しいんですが! 遥か昔、南北朝よりも前の時代から、六角は同じ佐々木一族の片割れである京極と喧嘩したり手を結んだりやっぱりお前死ね!な関係になったりを続けていたわけですが(そして応仁の乱辺りでは、お前の敵は俺の味方状態に陥ってるわけですが) そんな因縁深い相手であった京極家を有名無実化し、のしあがってきた浅井家を、六角の人達がどう感じていたのか想像するとテンションあがります。小賢しいと感じていたのか、お前京極倒すの俺達のはずだったのに何してくれたんじゃ!と感じたのか、それとも面白いと感じていたのか。是非とも定頼様には、亮政の台頭を愉快に感じていて欲しいです。将来的には、二人揃って証如さんをカツアゲしやがる亮政と定頼様が好きです(…)
 六角と京極の因縁繋がりでもう一つ。義弼は「義弼→義治→義堯」と名を変えていったと言われています(義堯=義治というのは余りメジャーになってはいませんが) 「堯」の偏諱を使った義弼は、一体どういう覚悟だったんだろうなぁと。応仁の乱の時代、六角の一族に、六角政堯という人がいました。父親は、六角時綱です。時綱は実の父親と兄(六角満綱と六角持綱。当時の六角家当主とその嫡男)を反乱によって死に追いやりましたが、細川勝元の手で還俗、擁立された弟・六角久頼との戦いで破れ、自害へと至りました。この久頼が、たび重なる京極持清からの政治介入などなど(他にも、うぁあああ……としか言えないことがあったりします)により、ストレス自害。そこで登場するのが、六角家の面々からは反逆者!という烙印を押されていたであろう時綱の息子、政堯です。どういうわけか、この政堯は幼かった六角政頼(久頼の息子。高頼の父。政頼という人物は存在せず、久頼の息子は高頼であるという説が通説ですが、今は置いておきます)の後見人という立場となります。次いで、政頼を放逐し、自らが六角家当主、そして近江守に就任します。(代々近江守は、佐々木一族の嫡流である六角家当主が務めるのが暗黙の了解となっていました。とっきどき、何それ知らないとフリーダムしやがる奴もいましたが。モッチーとかモッチーとかモッチーとかモッチーry)
 そして色々とすったもんだがあり、政頼が六角家当主に復活、近江守就任、逆に政堯放逐、という事態へと動いている内に応仁の乱が勃発しました。当然のように、政堯と政頼はそれぞれ東西へと分かれ戦うことになります。最終的に、政堯は政頼との戦いに敗れ、父親と同じく自害という道を辿ることとなりました。この後、政堯の息子を六角家当主に擁立しようという動きがあって政頼(これは高頼かも)ぶち切れ、ということがあったりするわけですが……義弼は、勝者である政頼から繋がる血筋の人です。義賢の手紙を読むに、六角家は古実を大事にする家だったようなので、先祖に辛苦を嘗めさせた「六角政堯」という人の存在は、忌まれていたように思うんです。政堯以降、六角家に「堯」の偏諱を使う人は一人もいません。名前を非常に大事にしていた当時の考え方からすると、やっぱり「堯」を使う人がいなかったというのは、何か意味があったように感じます。
そこで行き成り、義弼による「堯」の偏諱使用ですから、勘繰りたくもなります。義弼が義堯へ名を変えたのは、鯰江城落城以降だと考えられますので、下降を辿るばかりの状況に「政堯」から何かあやかろうとしたのかしら、と。
 とにかく、頑張って纏めてみたいと思います。しかし、地味に細川晴元室って重要なポジションだよなぁと(定頼様の娘、細川晴元の妻、細川昭元の母、六角義賢の妹、そして恐らく本願寺顕如室の養母) 本願寺顕如室は、信玄の正妻と姉妹であったことがよく取り沙汰されますが、細川晴元の養女であったこと(多分これはガチで養子として晴元の手元で育てられたんじゃなかろうかと)と、嫁ぐ際にはわざわざ定頼様の名目的な養女となり「六角定頼の娘」という看板を背負って顕如の妻となったことも、もっと取り上げられても良いんじゃないかなと思います。

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