何か吐いてみる//
乙式、主に暇人干身がだらだらと萌えに任せて吐き出す場所です。創作戦国について主に吐き出しています。同人、腐要素、注意報常時発令中です。
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2010/01/31 (Sun) 新刊案内



 1月31日に開催される創作戦国オンリーイベント『天下一番戦国izm』さんに持っていく本の案内をさせて頂きます。宣伝を兼ねまして(…) 暫く、この記事をトップに置かせて頂きます。

 スペースNo,橙11
 サークル名はそのまんま、乙式です。

『リラリラリリラ』― 36p A5 オンデマンド印刷 大坂衆 漫画+小説(桐生13+クイ+干身)

茶々と秀頼のほのぼの漫画とか盛親と勝永の漫才とか、いつも通りな大坂衆の大騒ぎ小説とか載せてます。七将星+大坂の役のメジャーどころは出来うる限り網羅してあると思い、ます、多分。あ、兼相と団右衛門と治胤と七手組はいません。七手組はいません。大事なことなので二度言いry 



『椿のまろうど』― 16p A5 コピー本 行長×清正 小説(干身) 18禁

精一杯、小西と清正を歩み寄らせてみた清正の可哀そうなぬるい濡れ場ありの小説です。時間軸的には関ヶ原の後です。清正の回想とか白昼夢とか幻とかそんな感じの話です。



『ダウニーレトロスペクション』― 56p 文庫サイズ オンデマンド印刷 大坂譜代本 小説(干身)

七手組がいます。七手組がいます。大事なことなので二度言いました。冬の陣が始まる前の大坂城での日々中心です。時々、もっと遡って小谷城な話もあったりします。枕投げでも始めそうな秀頼の小姓時代の面々(重成・糺・兼相・治房・長秋)や、爛れた関係の伊東さんと堀田さんや、まだ可愛かった頃の治房やらがいます。他にもちょろちょろと。無料配布ですので、是非是非貰ってやって下さいませ。大坂本『リラリラリリラ』をお買い上げ下さりますと、問答無用でおまけとしてついてきます(…)
 登場する譜代達の略歴を本の最後におまけとして載せていますので、大坂の陣に萌えるお供にどうぞ!←



 上記の三冊を持って行く予定です。
 イベントに来られた際には、是非、お立ち寄り下さいませ!はすはすしながら、乙式一同お待ちしております。

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2010/01/30 (Sat) 楔に生きる



 久々に、大蔵さんを主人公にした小説『めのと』を読んでいたら、万福丸と治長の主従にときめきを覚えてしまったので、追記にSSS崩れを放ってみます。万福丸と治長の主従にときめいた癖に、又兵衛+治長(+万福丸)な具合になってます。又兵衛+治長は、そんなシーンが無いだけで×前提という感じなので、ご注意下さい。同衾してます(…)

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2010/01/26 (Tue) 戦国にまったく関係ない話



 全てから解放された喜びに流されて、丸一日FF13やってました。エヘ(えへじゃないよ) だ、だって、七つあったレポートを始末し終えたんだもの!
 シヴァの片割れが、なつさんとこの定頼様過ぎてびっくりしました← よーし、パパたくさん呼びだしちゃうぞー。それから、ホープくんの幼顔と、ヴァニラの尻と、ライトさんの美脚と、スノウの安産型であろうと思われる腰を眺めてによによしていた変態は私です。サッズは皆のパパ過ぎて邪な目で見られませんでした(…) 何だろう、ヴァニラの言動一つ一つにきゅんきゅんきてしまうのは、あれかな、恋かな。ライトさんだと、うぉおお!一生ついていきます姐さん!な気分になるのですけども。FF10だとユウナに落ちて、リュックにはあんまりセンサーが反応しなかったので、まさか元気タイプのヴァニラに落ちるとは思いませんでした←
 まだまだ全然進んでいない、序盤の序盤過ぎてまったく何も分かってないんですが(…) 取り敢えず、ホーライっていけるんじゃね?とによによしなが今のところ進めてます。ホープ君は頑張れば左になれるって信じてる。今のところ否定する要素まったく無しに右だけど。愛しのヴァニラは相手が誰だろうと左固定だと思います。常考。ノーマルだと、ホーライktkrなのですが、薔薇と百合でまだキュン!とくるものに出会えていないので、ちょこちょこ進めながら探してみようと思います。……目的が間違ってるとか、言ったら駄目です。


 そんなこんなで、原稿もレポートも終わったので、そろそろ通常更新に戻していこうと思います。2月1日から一週間ほど合宿なので、何とも言えないのですが、それまでに一本くらいアップ出来たらなぁと。
 次の記事に、31日に持って行く本の案内を載せておきますね。

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2010/01/26 (Tue) 或る兄弟の冬



むらっときたので、追記に大野兄弟(治徳と弥十郎)で妄想SSS崩れを投下してみました。冬の陣真っ最中あたりです。微妙に暗い+短いです。

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2010/01/25 (Mon) 双璧の一


この記事で、三雲賢持は『寛政修重諸家譜』を参考に、1560年没ということで!なことを書いたのですけども、どうやら1566年で合っていたようです。『戦国遺文 六角氏編』に、1566年の書状で、賢持の戦死に関わるものが幾つか載せられていたので。1560年の戦死なら、義賢の采配ミスということになりますが、書状を読むに義弼が指揮をとっていた1566年の戦いで賢持は長政を相手に、戦死したようです。
 それから、定頼様の下ぼryげふんごふん。定頼様の重臣の一人である進藤貞治について、検索をかけてみたら、1551年没と書いてあったのですが、せ、1552年没じゃなかったのか…!?1552年4月2日の書状で、進藤賢盛(貞治の息子)が大徳寺へ宛てたものがあります。内容をかいつまみますと「父が逝去したことで、香典として百疋を下されましたこと、忝く思います」という感じでした。ということは、1552年に貞治は死没したんじゃないのかなぁと。ちなみに、1552年は、定頼様が死没した年です。1月2日に亡くなっています(西暦に直した丁度十年前の同月同日に亮政が亡くなっているのには、もうはわわわとしか言えない)
 そこでちょっと妄想をしてしまうと、追い腹?という気もするようなしないような……。ただ、1551年の12月22日に、本願寺は貞治ではなく、息子の賢盛宛てに手紙を出しているので、この頃には貞治は死没していて代替わりしていたと、言えるような気もしますし……わ、分からん!1551年の12月16日付の本願寺からの手紙は、貞治宛になっているので、少なくともその近辺までは生きていたとは思います。
 なんにせよ、もしかしたら定頼様って下手したら貞治を一番信頼してたんじゃね?とすら思えている身としては、もしも追い腹だった場合、絶句するしかないのですけれども(…)

 絶句といえば、本願寺証如さんが義賢へ「霜台(定頼様のこと)が御逝去されたことに、言語を絶しています」ていうとった。どんだけショックだったの。

 あ!あとですね、行清本、無事製本もすみまして、31日のイベント当日に持っていけそうです。これで譜代本、大坂本、行清本の新刊三冊が揃いました。譜代本は、おまけとして無理やりついてきます(…) こ、こうでもしなくちゃ需要が…!

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2010/01/23 (Sat) 亀寿かめじゅカメジュ


 なつさんとお茶を優雅に楽しみつつ、おされな喫茶店で空気をぶち壊す戦国談義をしてました。喫茶店の内装がちょっと素敵で、絶対になつさん宅の伏魔殿……もとい観音寺城の家臣控室はこんなんなんだ!とか熱弁してました。ごめん、なつさん。あいたたたたーでごめん。
 定頼様の姫様方にもだもだする傍らで、これだけは言わせてください。

 勝元ちょっと黙ろうか?

 どうして細川勝元の書く記録の六角家の当主達は、呼び方が名字でも諱でも通称でもなくて「亀寿」なの!亀寿って幼名じゃねぇか。確実に政頼卿と高頼ダディのことを幼名で呼んでやがる。下手したら久頼王子のことまで幼名呼びか。というか、六角家は亀寿だらけなのか。そうか。
 ますます、久頼王子は勝元と同衾を四、五回したんじゃねぇの疑惑がこう…はい← さすが「所詮京兆若衆好み」のおとん。やることなすこと予想斜め上を飛んでいく!そこに痺れはするが憧れはしない。あんな大人になったらお終いだと思う。

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2010/01/22 (Fri) 行清本


 行清本、終わりました!あとは面つけやらコピーやら製本やらを済ませてしまえば、31日に出す予定に新刊が全て揃います!……面つけコピー製本が一番鬼門なんじゃね?という気も、なにしもあらずですが(…)
 行清本は18禁な内容なので、ここにサンプルを載せるのは憚られるのですけども、取り敢えず、妄想を詰め込めるだけ詰め込んだ感じです。何か、清正が可哀そうな内容です(いつも通りじゃねぇか)

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2010/01/20 (Wed) 義賢のお母さん後日談


 『江源武鑑』をぱらぱらーと読んでいたら、天文二十二年(1553年)の項に「二十五日 屋形亡母ノ為に高島郡ニ四十九躰ノ石佛ヲ作ル奉行田中伊豆守資光ナリ」とありました。何かもう、え、ええええええええとしか言えません(義賢が作らせたと伝わっているのは四十体石仏ですけども) 『江源武鑑』は、氏綱兄さんから繋がる六角家の嫡流が存在したということで書かれているものなので、この場合の屋形とは義賢ではなく、氏綱兄さんの息子である義久です(『江源武鑑』の中だと義実)
 偽書疑惑が常について回る『江源武鑑』なので、何とも言えないのですけども、氏綱兄さんから繋がる六角家嫡流が存在したんじゃね?と思っている身としては、それでもアリな気がします。もしも、四十九体石仏を作らせたのが義久だとしたら、義賢は別妻の子ではなく、正妻であると思われる呉服様の子なのかもしれません。……何か、頭がえらいこんがらがってきました← 義賢が亡き母を追善するために四十九体石仏を作らせた、という言い伝えたが、どのような内容で伝えられてきたのかえらい気になります。「六角の屋形が作らせた」という内容で伝わっていたのなら、義久である可能性はあるような気はするのですけども。
 ということで、義賢は別妻の子なんじゃ?という憶測は、憶測を立てた翌日にぶち壊される憂き目に遭いました(…)

 色々と『江源武鑑』の他のところも読んでみたら、武田信豊に嫁いだ定頼様の娘は、本当は大原高保の子だったのを、定頼様が養女にして嫁がせたんだよ!ということも書いてあって、面白いです。あり得ない話でもない辺りが、凄く。それにしても、さらりと「誰々が天狗によって殺された」なんてことまで書いてあるのが恐ろしい……。

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2010/01/19 (Tue) 義賢のお母さん


 六角義賢が正妻の子じゃないかもしれない、という可能性に、何かが止まらなくなりました(…)
滋賀県高島町に鵜川四十八体石仏というのがあるのですが、これは義賢が1553年に、亡き母の追善のため作らせたものだと伝わっているそうです。ということで、定頼様の正妻であろうと思われる呉服様の没年が1553年以前なのかと言うと、そうでもなかったりします。1557年に、本願寺証如が義賢宛てに、慈受院という人が亡くなったことへのお悔やみ状っぽいものを送っていたりするからです。この慈受院さん、恐らく義賢の「斎藤ありえねぇんだけど!」書状に名前の出てきた慈寿院さんと同一人物かと思われます(寿の字がちょっと違っていましたが…) 義賢がその書状の中で、自分の名前の上に慈寿院殿と書いていたり、「慈寿院殿と私を前にしながら、斎藤家との縁談を進めるなど言語道断である」ということも書いていたりするので、六角家中にあってかなり高い位置にいる人なのではないかなぁと。おまけに『戦国遺文六角氏編』では、脇に「六角定頼室」との注釈も入っているので、これほどまでに敬われた扱い方をされている慈寿院さんが定頼様の正妻という可能性は大いにあると思います。ということで、義輝元服の時に、足利将軍一家の接待をしたりしていた呉服様=慈寿院なのではなかろうかと。
 ですが、慈寿院さんが亡くなったのは証如の手紙によると1557年です。1553年に、義賢が追善したという義賢の母親は何なのかということになると、その人は定頼様の別妻だったんじゃないかなと思います。1553年に義賢が追善供養したという言い伝えそのものが間違っている、という可能性も無いとは言えませんが…。でも、定頼様には男の子が義賢一人しかいませんし、別妻の子でも、という状態だったのかも。
 そんなこんなで、義賢が正妻の子ではなく、別妻の子だった、という具合で妄想を推し進めていくと、何かこう慄きが← 定頼様の時代の六角家は、将軍に意見すら言える名門ばりばりの家でしたから、別妻の子でありながら定頼様の嫡男であるということで滅茶苦茶肩肘張ってはってたんじゃないかなぁ、やら考えてしまいまして。同じく、ストレートに家督になれる立場ではなかった久政と、妙なシンパシーを感じ合っていたらキュンときます(お前)
 ……晴元室が呉服様を母親とした娘で、義賢と同じ年に生まれていたりしていたら、うっかり義賢→←晴元室な構図を妄想したくなってしまいます。古事記を読み終わってからというもの、兄×妹という組み合わせにときめきを隠せません(…) 速総別王と女鳥王の兄妹夫婦は古事記の最萌兄妹でした。あ、でも沙本毘古王と沙本毘賣命の兄妹も捨てがたい…!

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2010/01/17 (Sun) 経過報告


 大坂本の入稿が無事済みました!
これでどうにかスペースが形にはなってくれそうです。後の問題は行清本なんですけども……早くばーっとかいてがーっと進めて、ぽーんとキンコーズに渡してきたいです←
 ということで、またちょっくら沈んできますね!

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2010/01/11 (Mon) 速水さん


 無事譜代本の入稿が済みました!これで、イベント当日、スペースに何も本が無いという悲劇を免れそうです…。大坂本は大丈夫そうなのですが、行清本がちょっと危ないかも…です。が、頑張ります!何とか!

 ちょろっと調べものがありまして、偶々二位局のこともちらっと目にしたのですが、二位局は速水さんの従姉妹だったのでしょうか。二位局のお母さんが、速水甲斐守信之という人の妹だったそうです。二位局さん自体、近江速水庄出身らしいので、血縁という気はします。この速水甲斐守信之さんが、速水さんのお父さんではなかろうかと!はい!妄想ですけど!二位局は、夏の陣で茶々達に付き従い山里曲輪に籠もりますが、後に一人助けられたと言います。もしかしたら、速水さんが二位局へ落ち延びるよう告げたんじゃ?という妄想が頭をぐるぐるしています……。二位局には渡辺勝という徳川旗本の弟だか兄だかがいましたから、はい、何となく。大助へも、徳川方の叔父さんの元へ逃げなさいと言っていますし、助けられる人は出来る限り助けようとしていたのかもしれません。これでおまけに無口なんだぜ……畜生速水さん結婚してくれ。
 速水さんの、考えれば考えるほどずぶずぶはまっていく感じは、糺に似てるなぁと。治長や秀吉や定頼様は、ビビっときて、好きだ大好きだ!という具合なのですが、速水さんと糺は、最初はそうでもなかったのに、考えれば考えるほど、こう、深みに(…) 饗庭さんもそうかもしれません。考えれば考えるほどな人。
 ただ、速水さん→→→秀吉に妄想が展開しそうになったのは頑張って自重しました(正しい判断です)

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2010/01/07 (Thu) 六角とか六角とか六角とか木沢とか


 1490年代生まれの粒の多さに慄いていましたが、まだ甘かったみたいです……幻庵、お前もかっ!1493年生まれて、どれだけ人のことを慄かせれば気が済むのかと。朝倉孝景(義景のパパ)と同じ歳になるんですね。あと、武田元光も1493年生まれのようです。ということは、畠山義総(1491年)と武田元光(1493年)と六角定頼(1495年)の相親三人衆は歳が近かったんですね。……よし(何が) 武田元光の息子である信豊(定頼様の婿)が、定頼様へ宛てた手紙で、送り主のところに「彦」と署名していて妙に可愛かったです。定頼様のことも霜台と特に敬称も無く呼んでいて、恐々謹言もついていない手紙だったので、この二人仲が良かったのかもと。でなくちゃ、定頼様へ恐々謹言をつけないだなんて恐ろしくてとてもとても…!← 
 若狭名田庄にあった大徳寺塔頭大仙院の寺領が横領でもされていたのでしょうか。どうやら、大仙院の人が、定頼様へ大仙院の寺領を何とかして欲しいと頼み込んだ頃の手紙だそうです。武田信豊が「大丈夫任せてオッケー!」という具合のことを記した手紙だったので、定頼様が信豊へ大仙院側のお願いを取り成したのかなぁと。更に、定頼様重臣の進藤さんも、頑張ってあれこれ動いていたようです。大仙院の人へめっちゃ、信豊にお礼言っときなさいよ!と書いているので、相当信豊に無理を言って寺領をどうにかして貰ったのかもしれません。若狭にある寺領のことを、大仙院側が定頼様へ頼み込んだのは、縁の深い家である六角家が、将軍へ意見を言えるほどの立場であったからというだけではなくて、既に六角家が若狭武田家と縁戚関係になっていたからかもしれません。定頼様の娘は武田信豊に嫁いでいますが、この年(天文八年)、信豊はもう25歳なので、嫁を貰っていてもまったくおかしくありませんし。若狭武田氏側の動きを追っていけば、いつ頃結婚したのか推測出来やしないかと、淡い期待を抱いています←

 あ!あとですね、天文九年に、六角は伊勢でがっすんがっすん戦ってるのですけども、敵方に朝倉の名前があって噴きました。な、何やってるのあなた達!と思ったら、北伊勢に住んでる朝倉さんがいたんですね。何だ←
 天文九年十二月に義賢が伊勢三重郡千草をぶん取って一応戦いは落着しているようですけども、戦いの気配は天文九年の三月辺りから、もう見え始めています。というか、もう始まっていたのかも。この天文九年三月に、定頼様と亮政がセットで動いたことが『天文日記』に書かれています。内容のおおまかなことを載せている『史料綜覧』曰く、

 淺井亮政、六角定頼と議り、本願寺光教(證如)をして、越前の通路を開くことを同國守護朝倉孝景に求めしむ、光教、肯ぜず、

 とのこと。この約二ヶ月後に起こった伊勢桑名郡における戦いで、六角氏方の籠もる松岡城という城を、横瀬氏と一緒に、朝倉と一揆衆が攻めています。何か、関係している気がするようなしないような← でも、戦いに参加してる朝倉さんは越前の朝倉さんとは関係の無い朝倉さんなんですよね。やっぱり、関係無いのでしょうか。なんにせよ、この一連の北伊勢の戦いで、長野氏の所領は大分奪われ、それに代わり、六角が北伊勢へ大きく進出したそうです。高実ちゃんを北伊勢の家である梅戸家へ養子に入れたり、長いこと手をうってきましたから、よっぽど欲しかったんでしょうね、北伊勢。
 それにしても、天文九年のこの戦いで、長野氏と長いこと対立してきた北畠が関与していないとは思えないのですが……。定頼様の娘がいつ頃嫁いだのかはっきりすれば、この辺のことも分かるかもです。

 どうでも良いですが、定頼様が毛利元就へ送った手紙で、木沢について話してました。「木沢長政が演説するよ」って、

 あなたは一体どこへ向かっているの木沢…

 いや、単純に物事の意義を説く、という意味合いの方だと思うのですが。本当にやらかしそうなのが木沢の恐ろしさだと思います。

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2010/01/06 (Wed) 経過報告


 譜代本の原稿、書き終わりました!あとはノンブルをはって入稿するだけ…です!この勢いで、大坂本と行清本も書きあげられるように頑張ります!譜代本は七手組を網羅するのにえらい苦労しました(…) 書きながら、堀田盛高→伊東長実に目覚めたのは秘密です。この二人に大人のエロスを感じる(錯覚です) 
 俺…この戦いが終わったらFF13やるんだ…PS3を嫁に迎えたんだ、もの!

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2010/01/04 (Mon) 義賢の話



 白い梟と義賢という組み合わせにはぁはぁしてました。干身です。
義晴に義賢が白い梟を贈ってるんですよ…!白い梟を腕にとまらせる義賢を妄想するだけで、ご飯が十杯いけます(梟を貰ったのは将軍の方です) 義賢の梟に顔もふもふさせたい← この頃確か、義賢は十八歳か十九歳くらい、だったでしょうか。まだ義弼は生まれてないですね。ちなみに、義賢十八歳の時に、多分、多分!姪っ子なんじゃないかなと思われる子が生まれてます。天文八年三月十九日に、細川晴元に娘が生まれたそうです。定頼様の娘が晴元に嫁いだのが天文六年ですから、生まれた女の子が定頼様娘の子でも不思議ではないなと!朝倉義景の最初の妻(娘一人を産んで病没)が細川晴元の娘だという話もありますし、もしかしたらこの天文八年に生まれた子かもしれません。あれ、でもそうなると、九歳で嫁いだことに(…)
 晴元は最初の正妻だった三条公頼の娘さんとの間に子供は生まれなかったのでしょうか。もしかしたら、三条公頼娘との間に生まれた子が、朝倉義景に嫁いだ子だったのかも。というか、この三条公頼娘さんはどうなったのでしょうか…。定頼様の娘と晴元が婚約するよりも前に死没していたのか、それとも、定頼様の娘と婚約するに当たり、離縁されてしまったのか、想像がくすぐられます。でも、後に晴元が三条公頼さんの三女(顕如の妻になる人)を養女に貰ったりしていますから、定頼様娘と婚約する前に、死没していたのかもしれません。……しかし、そうなると、相当早くお亡くなりになったということに……あ、頭が!

 とにかく、今は若武者な頃の義賢にはぁはぁしています。義賢が十九歳の時、伊勢の千草城という城(長野植藤という人の城だったそうな)を落としていますが、梅戸氏も協力したという話も聞きましたが本当なんでしょうか。もしもそうだとしたら、まさかの高実ちゃんフラグに漲りが止まりません。

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2010/01/02 (Sat) 帰還報告




 あけましておめでとうございます!!


 帰ってこれるの3日かと思いきや、2日に帰ってこれました。
太融寺で茶々のお墓に参拝したり、大阪城に行って三十二義士慰霊の祠を探したら、まさかの発掘調査中のスペースに祠を発見して滅茶苦茶遠くからのお参りになったり、丸亀城の四つ目結パラダイスにくらくらきたり、色々ありました。
 超亀更新の駄目サイトですが、今年も宜しくお願いします!


 

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