何か吐いてみる//
乙式、主に暇人干身がだらだらと萌えに任せて吐き出す場所です。創作戦国について主に吐き出しています。同人、腐要素、注意報常時発令中です。
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2010/04/30 (Fri) 秀吉でちょっと妄想


 秀吉と、中世の非人達の存在を結び付けられないか、非人達関係の本を読んでみたのですが、凄く中世!という香りがして惚れこんでしまいました……。戦国武将、という存在だけを見ているのとは、また違った時代の姿と言いますか。改めて、武将達は上流階級の人達なんだなぁと。犬神人の異様さに惚れました。何だあの覆面イケメン過ぎる。父親がサンカだったんだよ!という話もある秀吉ですが、自身も一時非人として漂泊をしてたのかもと。
 村のシステム→子のいない寡夫や寡婦、孤児、漂泊してきて住み着いた人は村人としてカウントされない。癩病を発症した人は非人達へ引き渡される。七歳以降に村へやってきた子供は、大人になっても正式な村人として扱われない。などから、秀吉の幼少期について、色々と妄想が出来そうです。二十八歳になるまで何やってたかさっぱり分からない男ですから、ね!← また、そこへ秀吉が多肢症であったことも合わせて考えると、非人達へ引き渡された可能性が少なからずあるんじゃないか…?な妄想が、はい。非人と呼ばれる人の中には、所属する寺を持ち、僧侶の格好をして喜捨を乞う人もいたり、鉦を叩いて踊りながら念仏を唱えることで観客から投げ銭を貰ったりしている人達もいたそうなので、そんな人達へ秀吉が引き取られたとするのなら『甫庵太閤記』に、秀吉が寺へ入ったとする話が載っているのも何となく分かります。非人達へ引き渡されたのを、すっごぉぉぉぉくオブラードに包んだ結果なんじゃなかろうかと←
 そんな、妄想に塗れた秀吉の小さい頃の話を書いてみたいのですが、そりゃ二十八歳まで何やってた分からない男ですので、オリジナルキャラを登場させないと話が成立しなくなってしまうのが悩み所です……。
 とにかく、まだ本の触りしか読めていないので、全部読み切ってから、色々と妄想を膨らませてみようかと思います。

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2010/04/29 (Thu) 購入本


 ノリとテンションで登録した戦国モバイルの戦の戦況報告のメールが、絶賛夏の陣中で落ち着きません(…) きっと五月六日は、ひっきりなしにメールが送られてくるんだろうなぁ……重成討ち死にとか、又兵衛討ち死にとか、兼相討ち死にとかメールで送られてくるんだろうなぁ……お、落ち着かねぇ! 七日は更に落ち着いてられませんし!ずっと携帯片手にそわそわしてそうです。
 夏の陣が近いからというわけではありませんが、注文した『関ヶ原と大坂の陣』という本が届きました。『畿内・近国の戦国合戦』と同じシリーズで出版されている本です。出版年月日的に、新しい研究内容に基づいた論が読めるかなと。興味深かったのが、方広寺の鐘銘問題についてです。徳川からのいちゃもんだよ!という通説が通っておりますが「豊臣方にも非があるんじゃね?」ということが書かれていました。その項を読むと、確かに、全面的に徳川からのいちゃもんとも取れないなと。清韓さん自身が「国家安康、君臣豊楽」の一文に、隠しの意として家康と豊臣の名を使ったと証言しています。ただし、呪詛するつもりではなく、祝いのつもりとして使ったとのこと。しかしながら、徳川方が問題としたのは呪詛がどうというよりも、徳川方に無断で「家康」の諱を用いたことだそうです。使うなら使うで、一報すべきだろうと。また、豊臣の場合、秀吉や秀頼の諱を用いていません。このことから、何か隠された意図があると勘ぐられても仕方が無いように感じます。ただし、林羅山が文中にある内大臣の唐名である「右僕射」を取り上げて「これは家康様を討つという意味の文章だ!」という、ちょwwwまwwwとなるようなことを言ったりしているので、徳川方にとっても渡りに船な出来ごとだったのかもです。
 そして気になるのが、この鐘銘も含めた方広寺再興の奉行が片桐さんだということです。片桐さんが、果たして清韓さんから鐘銘の案文を見せて貰っていたのか、秀頼や茶々が鐘銘の文面を知っていたのか、結果如何で色々と勘ぐれてしまいそうです。

 同じ本の道明寺の戦いについての項目で、後藤隊の残党と合流して戦った、と書かれた薄田さんにときめいてしまいました。又兵衛の兵を、薄田さんが指揮して最期まで戦ったんだなぁと思うと…はい、胸が苦しくなります← 薄田さんと又兵衛は仲が良かったに違いない!と勝手に思い込んでいる身からしますと、尚。又兵衛の所に乗り込んで、又兵衛の郎党達と酒盛りしてれば良いじゃない。
 七日の戦いについてもさらーと流し読みしまして、改めて勝永、チート過ぎます。チートだとは分かっておりましたが。あと、大怪我して秀頼のもとへ帰ってくる治長にはぁはぁしてしまいました(…) それにしても、1649年になっても、生きている説が浮上して幕府が大騒ぎする治房ってどんだけ危険人物扱いされてるの。

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2010/04/27 (Tue) 宗牧さんの観音寺城ツアー


 定頼様時代の観音寺城の様子がちょっと分かる、ということで谷宗牧という連歌師の偉い人(…)が、東国へ下向した時の様子を書きとめた『東国紀行』というものを、ちょろっと読んでみました。東国へ下向するついでに、宗牧さんは観音寺城へ寄っているのですが、本当に定頼様の屋敷に「二階」が存在してましたよ…!それから、高保や永田さんと囲碁を打ってた義賢にちょっときゅんとしました← しかし、文中で尊敬語を使われまくっているのは、定頼様のことなのでしょうか。主語が例の如くすっぽ抜けなので、フィーリングで感じとるしか。もしも定頼様のことだった場合、滅茶苦茶宗牧さんに恐れられry……敬われてますね!あと、天文十二年に体調を崩した、ということにもなります。
 宗牧さんは、建部さん家と旧知の仲だったらしく、仲でも建部左馬という人と旧知の間柄のようですが『寛政修重諸家譜』の建部氏の項目で佐馬助という役職名の人は「ドン満綱」の代、つまり嘉吉年間から高頼ダディの頃まで仕えていらっしゃった方しかいないのですが……宗牧さん、いくつ?← また、建部氏の人で、源八という字の人が、幼少の頃の義賢の手習いや、後見をしていたとも書いてあります。この源八さんは、もしかしたら義賢お気に入りの建部賢文さんの父親である、建部秀昌さんのことかなぁと。『寛政修重諸家譜』ですと、字が源七郎になっていても、気にしません!(…)宗牧さん曰く、書のことだけでじゃなく、他の色々な道に通じている凄い人だよ!とのことです。しかし、幼い頃の義賢に手習いを施した人とは……何だ、この胸のときめき(病気です)

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2010/04/27 (Tue) 拍手お返事


 一つ前の記事で、慶長八年に将軍宣下を受けたのが秀忠と書いてしまっていたので、こっそり家康に直しておきました……や、やっちまった感がいなめない!多分、将軍=秀忠の刷り込みが脳にされてるんだと思います←

 追記に、ブログ拍手お返事をさせて頂きます。いつも有難う御座います!

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2010/04/25 (Sun) 秀吉がらみで色々と


 義演准后さんもMy HIDEYOSHI をお持ちだったようです(…)
『義演准后日記』慶長十年八月十八日の条に、義演さんが秀吉の法要のために理趣三昧というのを行っているのですが、それを行ったのが義演さんが「私に」奉っている豊国社でだったそうです。神屋宗湛以外にもマイ秀吉を保有してる人がいたとは……もしかしたら、ここに出てくる豊国社が、現在の醍醐寺三宝院の庭にある豊国大明神の祠になったのかもしれません。昔はちゃんとした社だったけど、幕府を憚り今の祠にまで小さくなったのかなぁと。それにしても、ここまで義演さんの秀吉スキーぶりを目の当たりにしてしまうと、登場させたくなってしまいます。秀頼が関白になるという噂が一時流れるのですが、それを聞いた義演さんの日記のテンションは凄いです。「珍重、珍重、珍重」ですよ。つまるところ「めでたい、めでたい、めでたい」ですよ。どれだけめでたいの!大分前の日記にも書いていますが、夏の陣が終わった後に秀吉の法要を営んでしまうほど豊家へ肩入れしていた人ですから、秀頼が関白になる、という噂を聞いた時、滅茶苦茶嬉しかったんだろうなぁ。それが単なる風聞だと知った時の落胆は大きそうですが……。
 そういえば、大日本史料や、史料綜覧をぱらぱらーとしていると、知らなかったことが色々と書いてあって面白いです。慶長十年に、まさかの八丈島の火山噴火ですよ。ひ、秀家ぇええええ!
 更には、慶長六年に、官兵衛が家康から「畿内に知行地やるし、官位もやるよ」と言われて断ったらしいとか、慶長七年に政宗が秀頼のもとへ挨拶に行って家康にイラッとされたとか。思わず、政宗チャレンジャーだなwwwと思ってしまいましたが。ぽかーんとしまったのが、島津の義久さんが豊国神社で神楽の祈祷を行うよう、梵瞬さんへ使者を通してお願いしていたことです。よ、義久の腹が読めない!慶長八年の五月も後半のことですから、既に家康が将軍宣下を受けた後です。九州と京の遠さを考えると、義久は秀忠の将軍宣下を知らなかったのかも?とも思えますが、義久が豊国社で神楽の依頼をしていること自体、意外過ぎます。あわわわです。同じく豊国社ネタで、慶長十年に佐竹義宣さんが豊国社に石灯籠を寄進することを、梵舜さんへ伝えています。京の豊国社には、散逸してしまっていた石灯籠の内、回収出来たものが並べられていますが、もしかして名前が風化して分からない一基が、佐竹さん寄進のものだったりするのかもしれませんね。余談ですが、並んでいる石灯籠の内一基は、治長が寄進したものです。私は良く読めなかったのですが(…) 大野修理大夫治長と刻んであるのだそうな。
 『梵舜日記』は、読んでいくと本当に面白いです。まだ、大日本史料に載っている断片的な内容しか読めていないのですが、いつか『梵舜日記』をちゃんと読んでみたいです。だって、関東へ下向する浅野長政さんが、旅の無事を祈るために豊国神社で湯立ての祈祷を行ったら、一釜割れて一釜沸騰するんだぜ…?腹抱えて笑うかと思った← 間が悪過ぎるよ長政さん。ただ、現代の感覚で読むと、うっかり笑ってしまいそうになりますが、呪詛やら占いやらを信じていた当時の人にとっては、笑いごとではないような……。また、こちらは『時慶卿記』の話になりますが、ねねが大坂に行くという内容を読む度に、ほっこりしちゃいます。半月以上逗留していたこともあったりで、茶々や秀頼、それに多分千とも、どんな日々を過ごしたのか勝手に妄想してます。山里曲輪で紅葉でも見ながらほのぼのしていれば良いと思います。

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2010/04/23 (Fri) オリキャラ「実は」バトン


 そういえば、今年も夏の陣が近づいて参りましたね。今年も何か出来れば良いのですが、一昨年:大坂の陣プチ動画→去年:エセマルチエンド方式小説ときたら、次は何でしょうか。もしかしたら、何も出来ない可能性も十分にあり得るのですけども(…) いっそ、七手組を落とす夢小せryげふんごふん。

 中様からバトンを頂戴しましたので、追記で答えさせて頂きます。いつも有難う御座います!

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2010/04/19 (Mon) 腐れ縁な人達


 史学の学科に通っている友達が、戦国大名について調べなくちゃならなくなったんだけど、誰を調べたら良いかわからない!と言っていたので、六角家をごり押ししておきました← 六角家って大名扱いで良いんですよ…ね?あれ?(お前) 史料だけは無駄に手元にあるから貸すよ☆と良い笑顔で伝えましたとも、ええ!でも、そういう個人の好き嫌いを抜きにしても、六角家は面白い題材なんじゃないのかなぁと思います。保内商人や、室町幕府との関係を扱えば、そこそこ何か書けそうな。他にも、大徳寺、本願寺、延暦寺、永源寺など、寺社との関係でもいけそうです。
 そういえば、保内商人は主に伊勢へ買い付けに行っていたんですね。近江には海がありませんから、保内商人が伊勢から買い付けてくる海藻類や塩が、重要な品物として流通していたそうです。海藻は置いておきましても、塩は生活必需品ですから、伊勢路を失ったら、湖南は大打撃だったのかもしれません。だから、定頼様は高実ちゃんを北伊勢の有力国人である梅戸家へ養子に出したり、北伊勢へ侵攻したりしたのかなとも思います。流通ルートの確保、みたいな。他に、近江へ塩を含む海産物がくるルートがあるとしたら、越前を通ってやってくるルートでしょうか。こちらが塞がれると、湖北が迷惑しそうですね。湖西は若狭とのルートがあるので大丈夫そうですが。天文九年に、定頼様と亮政の連名で「朝倉に道をあけるよう伝えてよ!」なお手紙を証如さんへ送ったのは、ここらへんの事情があったかもです。塩が無くなっちゃうよ!的な。しかし、どうして朝倉がこの時、道を封鎖していたのかいまいちわかりません。おまけに、定頼様と亮政からの要請を証如さんは断っていますし、い、一体何が。

追記>『史料綜覧』の記述を読む限り、朝倉方が越前への道を封鎖しているため、六角定頼と浅井亮政は本願寺証如を通して、その通路をひらこうとした、と汲み取れます。がしかし!今さっきちょちょいと検索をかけてみましたら、これは定頼様と亮政が、一向一揆問題で朝倉家と対立していた証如へ「一万貫よこせば、朝倉との和睦を斡旋してやるよ」とのたまった手紙である、的なことを書いてあるのを見つけてしまったのですけれども、な、な、なんですとぉおお!?二人揃って何やってるの貴方達。そりゃ、証如さんもびっくりです。何この新手のカツアゲ。天文五年に、定頼様と和睦した証如さんは、わざわざそのことを亮政へ報告していますから、定頼様も亮政も、本願寺と深いお付き合いをしていたのでしょうけども (後年、定頼様の猶子が顕如さんへ嫁ぎ、浅井家も浅井家で、久政の閨房教育を行い身籠った女性が顕如さんの乳母になっています。つまり、顕如さんの乳兄弟は長政の異母兄) どう見ても、カツアゲです← 
 六角・浅井・朝倉・本願寺と、信長包囲網を構成していた家々の関係が因縁深すぎて、もだもだしますね!お祖父様の時代、下手したらそれよりも前からの腐れ縁って。

追記の追記>ナチュラルに、高実ちゃんを梅戸へ嫁がせたって書いてました!手遅れなんじゃないのかこの頭。

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2010/04/19 (Mon) 拍手お返事


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2010/04/17 (Sat) 収集結果報告


 お久しぶりです!姿をくらましていてすみません。生きてます!生きてますよ!失踪していた間に、幾つか史料を読むことが出来ました。箇条書きに、ぅぉうぇええ!?となってしまったこと等々を。

・亮政と字がそっくり長政。声出して笑いそうになってしまいました。亮政と長政の字は結構荒々しいのですが、久政はスレンダーな字を書く人でした。長政が敢えて字を亮政に似せようとしていたのなら、少し切なくなってしまいます。初代の影は重すぎるんだぜ…!

・ちゃっかり毛利の援軍に行っている木沢長政。『江濃記』にあった内容です。絶対嘘だろバロスwwww となっていたのですが、定頼様が毛利元就へ、

「去年(天文九年:1540年)城を攻めてきた尼子の軍勢を数度にわたって破ったことは、誠に比類なきことです。そして、大内と相談され、去正月十三日(天文十年:1541年1月13日)にもう一度一戦に及び、自ら手を砕きながら本意を遂げられたこと、木沢左京亮(長政)からの書状で拝見しました。なお、長政(木沢)より説明が行われるでしょう。恐々謹言
 五月八日    定頼
 毛利右馬頭殿(元就)」

 という書状を送っている事実があります。あれ、これ、木沢あっちの方に行ってるんじゃね。下手したら、郡山城の戦いに参戦してるんじゃね…?という危惧を覚えました← もしも本当に木沢が毛利への援軍に行っているのだとしたら、毛利側が木沢長政の存在を抹消したとしか思えなryげふんごふん。おや、誰か来たようだ。

・『細川両家記』に魔法を使っていると書かれた細川政元。いつだって政元は全力投球で生きてます。全力で周囲のHPを削ぎにかかります。

・『江濃記』に記された三管領の面子が畠山在氏、細川晴元、六角定頼だった悲劇。ちょ、し、斯波さん、あれ、ちょ、ま、斯波さぁあああん!!

・『大心院(細川政元の法名)記』に男色という単語が異常発生していた件について。せめてオブラードに包もうぜ。

 とにかく、あの時代はネタの宝庫過ぎて困ります。むしろ、政元がいる時点でネタに事欠くことはなry

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2010/04/13 (Tue) 始めてみました


 「太閤立志伝V」をちょこちょこ始めてみました。
即、利家に手合わせでぼこられましたが。まwwちょwwwえーwww だったんですけど← ミニゲームというものがひたすらに苦手なので、セーブとロードを繰り返してます。時を戻す魔法、なんだぜ…!とにかく今は、資金調達でちょろまかした金を、こっそり懐に収めることだけが楽しみです← いつになったら織田家を出奔して浅井家に仕えられるのやら。長政に仕える秀吉を妄想して、勝手に滾ってます。治長、早く生まれないかな。秀吉ハーレムに治長は不可欠なのに!(お前)

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2010/04/12 (Mon) 拍手お返事


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2010/04/10 (Sat) 百年華影ぷち人物紹介


 「百年華影」がやっと更新出来ました。人物紹介が追い付いていない有様なので(…) ここで、簡単に登場した人物の解説をさせて下さい。

 浅井亮政:浅井三代の一代目。長政のお祖父ちゃん。拙宅では、久政の実父は六角義久なので、義理のお祖父ちゃんということで。百年華影一章の0話の段階では、まだまだ浅井は湖北の一国人に過ぎません。この数年後、六角定頼との十数年に渡る殺し合いが始まります。

 井口経元:又八郎と、話の中で呼ばれていた人物です。後の官名は弾正忠。長政の母親である阿古さんの父親。つまり、長政のお祖父ちゃん。井口氏は浅井氏と同じく、京極被官の国人でした。京極氏の内紛により台頭する浅井氏を支持し、亮政の重臣となります。六角と浅井の激戦が繰り広げられた箕浦の戦いで、亮政の身代わりとなり討ち死にしたという話が残っています。
 拙宅では、幼い頃から亮政と共に野山を駆けまわっていた幼馴染設定で。

 六角定頼:出家していた頃の名前は、江月斎承亀。官名は弾正忠。兄・氏綱が病床となった為、入寺していた相国寺から近江へ帰ってきました。兄と父の死後は、兄の遺児である義久の後見として手腕を振るいます。幕府内において、強い発言力を有しました。

 進藤貞治:話の中では新介と呼ばれています。後の官名は山城守。六角家の重臣として、定頼の手足となり動いていた人物です。本願寺への使いや、寺社への使いなど、様々な場所で進藤貞治の名を目にします。恐らく、六角定頼にとって腹心と呼べる存在ではなかったかと。

 以前の記事で、伊庭の乱の際、浅井が裏で伊庭を支援していた説があると書きましたが、ここでは浅井は関与していないという方向で!浅井が関与していても面白かったのですけども、やっぱりこの時期の浅井はそこまで力が無い方が、逆にきゅんと…はい←

 

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2010/04/08 (Thu) あったら良いなの話


 戦国時代を舞台にした乙女ゲームが発売されるそうですね。メインとなっているのが守備範囲外の方々だったので、購入予定に組みいれるのは思いとどまりましたが。……六角家の人々を誑かせる乙女ゲームが出たら、七本くらい買うのに!保存用観賞用プレイ用抱き枕にする用布教用布教用布教用です。甲賀の女忍!という設定で結構いける気がするのですが← 浅井に偵察に行って捕まると、蔵屋さんとの百合ルートが開始されます(亮政じゃないのか)(…) 桑実寺にいる義晴ルートもありですしね!いっそ主人公呉服様で、定頼様を集中的に落とすゲームでも良いです。
 今日一日そんなことばっかり考えてる暇があるのなら、遅筆をなんとかしろ!てな話ですね。すみません!定頼様と亮政への漲りをぶつけてる真っ最中です。ですので、次の更新は百年華影の話になりそうです。広まれ六角の輪!

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2010/04/07 (Wed) 拍手お返事


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2010/04/06 (Tue) 近江の国人な人達


 速水さんが大助へ、徳川方にいる叔父さんの元へ逃げるよう促したという話は『武辺咄聞書』という史料に出てくる逸話のようです。原文だと、

「貴殿は一昨日 誉田にて手柄成る太刀打高名し、高股に鎗手負たるときく。疵は痛候哉。秀頼様にも頓て御和談にて御命無恙御出有筈なれは、貴殿は早々除給へ。人を添真田河内守方迄送届けん」

 と速水さんの言葉が書かれているらしく、速水さんの気遣いぶり全俺が泣いた。秀頼の助命に関して「つつがなく御出になられるはずだから」って、その上で大助を外に出そうとしているのですから、速水さん自身、秀頼が無事に済むとは恐らく思ってはいないわけで……それなのに大助へ「秀頼様は大丈夫だから、安心して城を出なさい」という具合に城を出るよう勧めるなんて。しかもその前には「傷は痛くないか」なんて、怪我をした大助を気遣っています。止めてくれ速水さん惚れてしまうから!
 ますます、速水さん←大助妄想がひどくなってしまいそうです。

 速水さんと言えば、出身地が速水庄だと言われておりますが、その速水庄は小谷城のすぐそば!という場所にあるそうです。そして、その速水庄の名主の一人に渡辺姓の人がいました。速水氏が速水庄の有力者であるのと同時に、渡辺氏も大きな力を有していたのかもしれません。渡辺氏の出身である二位局(茶々の侍女)の母親は速水氏の出だと言いますし、兄の渡辺勝はちょっと前まで速水姓を名乗っていました。足利義昭に味方して敗北した渡辺昌(糺のお父さん)は近江に逃亡したと言いますが、この近江の渡辺氏を頼ったという気もするようなしないような(…) ちなみに、かの有名は渡辺勘兵衛了は近江の速水庄出身らしいので、渡辺の勝さんや二位局、はたまた速水さんとも親戚同士かもしれませんね。
 近江の国人繋がりで、青柳が馬淵の親類を頼り重成との子供を産み、その子が馬淵姓を名乗ったという話を、今までふーんとスルーしてきたのですが、よくよく考えますと 馬 淵 姓 !大昔、六角家の守護代を代々務めた佐々木源氏の一族が馬淵氏です。その流れを汲む人々が、重成、もしくは青柳の親戚にいたのかもです。木村氏も真野氏も佐々木源氏ですので、その繋がりにきゅんときてしまいます。重成も青柳も、義弼に可愛がられてしまえ。馬淵氏の本拠があった場所は確か秀次の所領だった近江八幡辺りだった気がする、ので、その辺りの関係も色々と深読み出来てしまえそうです。六角義康に頭なでぐりされてる重成を妄想してこようと思います←

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2010/04/04 (Sun) 最後の戦い


 天文七年(1538年)の戦いが、大永五年(1525年)を一発目とした定頼様VS亮政の、最後の戦いなんだなぁということを、改めて知りました。ちょっと前に本で読んだ時は六角に興味が無かった頃なので、完全にスルーしていたのですけども、今読み返してみると、えらい たぎる (…) 十三年間お隣さん同士で殺し合い続けてきたのかよお前ら、的な。その四年後に亮政が没することを考えるとなお。
 おまけに、近江全体を巻き込んだ戦いでしたので、近江のオールスター状態です。小谷城周辺だけでなく、高島郡では(恐らく)浅井明政(亮政の婿。久政にとっては義兄にあたる。饗庭局のお父さん)VS高島さんという状況になっていた模様です。この天文七年の戦いで、亮政は定頼様に屈服しました。その後、天文九年に二人連名で本願寺の証如さんへ「朝倉へ道あけろっていう取次、お願いしますよな!」というお手紙を送るに至るのを想像すると……何か、きゅんとします(何で)
 浅井、六角、朝倉の因縁の深さが、大好きです← ここに斎藤が入ると、より一層美味しくなります。

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2010/04/03 (Sat) 気候と肖像画


『近江源氏太平記』と並行して『湖の国の中世史』という本を読んでます。思わず、ほぁあとなってしまったことが書いてあったので、メモついでに!よく、近江は湖北、湖南、湖西、湖東という区切りをされますが、南と北では気候が違うそうです。滋賀県在住の方は、んなの当たり前だよ!とおっしゃるかもしれませんが、武蔵野国生まれ武蔵国育ちで他県で暮らしたことのさっぱりない私としましては、何だそのきゅんとくる気候!といいますか(…) 湖北は北陸系の気候で、湖南は瀬戸内海系の気候なのだそうです。湖北の場所によっては、青森県並の寒さなところもあるようで。雪深い清水谷とか、想像するだけで風情があり過ぎます。何より、湖北と湖南の雄だった六角と浅井(ちょっと前は京極)の対立を思うと、気候や文化が違うということすら何かもう、暗示的に思えてなりません(勘違いです)


 話は変わりますが、大野治長夫人像について雑華院へお伺いしてみたところ、現在行方不明とのことです……。どうりで、どうりで妙心寺展にも出てこないわけですね!現在の住職さんも目にしたことが無いそうです。正確には、蔵を探せば出てくるだろうけど、蔵を探すのが大変そうなご様子でした。また何か分かれば教えて下さるとのことでしたので、正座しながら待っていようかと思います。
 それにしても、一体どんな経緯で治長夫人の肖像画(恐らく寿像?)が雑華院へ所蔵されるに至ったのかが、気になります。『落穂集』ですと、米村さんが葛葉(治長の娘)の亡骸を焼いたのが妙心寺と書かれていますので、大野家と妙心寺には何か縁があったのかもしれません。

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2010/04/02 (Fri) バトン


 中様からバトンをしゅぱぱっとキャッチさせて頂きました!
 追記にて、回答させて頂きます。

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2010/04/02 (Fri) 四月一日



 というわけで、パソコンサイトの方、エイプリルフール仕様でした!
乙式メンバーがこの企画を話し合ったのが居酒屋という、悪乗りするのに最適なシュチュエーションだったので(…) あんな乗りになってしまいました!すみません!しかし後悔はしてません!もそもそ、我に帰らないよう準備を進めておりました。
 来年はどうしようか、今からちょっとによによ妄想してます←

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