何か吐いてみる//
乙式、主に暇人干身がだらだらと萌えに任せて吐き出す場所です。創作戦国について主に吐き出しています。同人、腐要素、注意報常時発令中です。
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2008/11/02 (Sun) お茶的な


 「江戸・東京の茶の湯展」に行ってきました。戦国時代とか江戸初期のものよりも、江戸中期辺りからのものが多い印象だったんですが、秀忠が忠興に与えた茶入とか、家光が政宗に与えた茶入があって、一人テンション上がってました(…) でも、人が多すぎてあんまりじっくり眺めることが出来なかったので、ちょっとしょんぼりです← もっと舐めまわすように眺めていたかった!(止めなさい) そういうの関係無く、茶道具はやっぱり綺麗だなーと思うんですが。茶碗よりも、茶入にときめきます。理由は特に無く!← 売られてた茶入に物凄くはあはあしたら3万とか書いてあって、おもちゃ売り場に居座る子供状態になってました(…)
 んでもって、何故か帰ってくる頃には「茶人豊臣秀吉」という本を買っていた不思議。……う、売ってたんだ!殿下が買ってくれって囁いたんだ!(あああああ) まだ最初の方しか読めていないのですが、かなり面白いです。茶人っていう視点から秀吉を見た本が中々無いからかもしれないんですが、いっそ利休との二人三脚ぶりに涙がちょちょぎれそうになる。
 今の所興味深かったのが、茶室の広さについての話でして、天正年間は二つに分かれてたみたいです。本数寄者(お高い唐物の道具を1品でも持ってる人)は四畳半の茶室、侘び人(お金が無く、唐物の道具を持てない人)は三畳の茶室を使うよう、室町から続くルール的なものが天正年間まで存在していたとか何とか。本数寄者には、津田宗及とか今井宗久とか勿論利休も含めて、堺の豪商も含まれてたっぽいです。でも、そのルールに疑問を抱いたのが秀吉と利休で、二人がタッグを組んだ天正11年から、三畳でお茶しないかい!な働きかけが始まって、天正14年、15年辺りにはもう、結構な人が唐物を持っていても三畳の茶室を作るようになってた。…らしいです。利休の創作茶の湯が怒涛の如く広がっていったのも、この頃だとか。あれ、むしろ三畳にすること自体が創作茶の湯の一環?だったかも…です(しっかり読め)
 面白いのが、秀吉の作った黄金の茶室が三畳だったことでしょうか。まだ本数寄者でも三畳の茶室を用いることが浸透していない頃に、お金の無い人が使う三畳の茶室を黄金で作るとか、色々面白すぎる。何かもう、どこまでも秀吉だなぁと(笑 

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