何か吐いてみる//
乙式、主に暇人干身がだらだらと萌えに任せて吐き出す場所です。創作戦国について主に吐き出しています。同人、腐要素、注意報常時発令中です。
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2008/12/09 (Tue) 治長辺り


 今ちょっと、東京大学史料編纂所のホームページで、がちょがちょ検索するのが楽しくて仕方が無いのですが。そこで、ちょいと見つけた「優曇華院文書」に入っているらしい書状の差出人にある、「大野弥三郎」って、やっぱり治長のことなのかな。治長の通称が弥三郎らしいという話は聞いていたのですが、実際に目にしたことはなかったので、おおおと。この弥三郎さんが治長と同一という確証は無いのですが、一緒に差出人の所に名前を連ねている「片桐加兵衛」という人は、片桐貞隆さんかなぁと。「兵庫県史」に載っている書状にて、加兵衛の部分に、貞隆と注釈があったので。んでもって、貞隆と名前を並べる大野弥三郎と言ったら、やっぱり治長しか思いつかなかったものでして……。差出人が誰々で、受け取ったのが誰々だよ!程度しか分からない検索がもどかしい!一体何があの書状には書いてあったんだ…!
 あと、また慶長四年の五大老(利家の代わりに利長)連署の知行宛がい状で、大野半左衛門という人が、二百石を与えられているのですけど、この大野さんは、治長家系の大野さんと何か関係があったりするのかしら。「史料綜覧」だと、どうやら慶長四年の段階で、治房は豊臣家の代官所を預けられていたようなので、もしかしたら治房かなぁという、根拠も何も無い妄想が← 慶長四年の時点での治房なら、知行二百石が妥当かもしれない、ような。治純は、市兵衛だし…それに、もっと貰ってても良いような気がするし。治胤は、養子にやられたor豊臣家を出て行った時期がよく分からないので、ちょいと外しまして。ぶっちゃけ、治長の大野家とは、まったく関係無い大野さんかもしれないんですけどね!←

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