何か吐いてみる//
乙式、主に暇人干身がだらだらと萌えに任せて吐き出す場所です。創作戦国について主に吐き出しています。同人、腐要素、注意報常時発令中です。
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2009/09/15 (Tue) 孝蔵主~糺


 案の定、関ヶ原合わせで何も出来ませんでし…た…!関ヶ原に関して、ドがつく勉強不足なので(…)まずは、そこから頑張らなくては。大津城の開城交渉に、孝蔵主(ねねの使者)、饗庭さん(茶々の使者)、海津尼さん(茶々の使者。饗庭さんの母親であり、亮政と蔵屋さんの娘である鶴千代さんと同一人物と推測される。孝蔵主と出身の寺が一緒)が向かった、という話はなるべく早く書きたいです。城は開城間近でしたから、どちらかというと、龍子さんの身を無事保護するというのが目的だったんじゃないかなと。饗庭さんと海津尼さんは、龍子さんを護送し京都へ向かった一行に多分同行したとして、残った孝蔵主が拘留され解放されるまでの顛末に、えらい妄想をくすぐられます。そもそも、何で孝蔵主城に残っちゃったの!という突っ込みも入れたいですが、孝蔵主のことなので、城代の手配とか細々とした後処理をやっていたような気がします。その間に本戦で西軍が負け、孝蔵主は拘留され、時慶さんがまさかのお百度参りと← 
 孝蔵主絡みで、大坂の役の時も、孝蔵主が交渉に動くという噂が公家のみならず籠城している兵の間にも流れたそうな。むしろ、又兵衛の組下だった長沢さんレベルの人だと、冬の陣講和の使者としてやってきたのは、龍子さんと孝蔵主だと思っていたらしい節があります。実際やってきたのは初ですから、龍子さんはニアミス、でしょうか。孝蔵主に関しては、どうやら後に孝蔵主の養子になる川副重次という人が大坂に籠城していたらしいです。落城後に秀忠へ仕えたそうな。孝蔵主は家康の頼みで秀忠に仕えた、という話があるので、孝蔵主が重次の助命嘆願をした可能性はあります。
 そして、まったく孝蔵主とも関ヶ原とも関係無いのですが、糺の家が少なくとも天明六年(1786年)まで続いているのが確かなようなことに、胸がじーんとしました。『寛政重修諸家譜』に記載されている分で天明六年までなので、もしかしたら幕末まで、更には現代まで糺の子孫(間に養子とか入っていますから、糺の血とは言えませんが)が続いているのかもしれないと思ったら、こう、おおおおお!と。
 糺の子である守が南禅寺から還俗し、徳川綱重(千が育てた家光の子)に最初から500石で召し抱えられたのは糺の子だからという理由に、テンションうなぎ登りです。糺の子だからって……! 守は自分の父親のことを覚えていたんでしょうか。出来ることなら、覚えていて欲しいです。顔は覚えていなくとも、手とか。槍の名手だった糺の手は、豆だらけだと思うのですよ、多分。渡辺家も、もうちょっと色々情報があれば妄想したいんですが。奥さんとか奥さんとか奥さんとか。糺の奥さんって、一体どこの家の人なんだろう。それ言っちゃうと、治長(織田家なんじゃね?と推測されていますが)、治房、治胤の嫁さんが気になりまくるんですけども!

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