何か吐いてみる//
乙式、主に暇人干身がだらだらと萌えに任せて吐き出す場所です。創作戦国について主に吐き出しています。同人、腐要素、注意報常時発令中です。
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2009/09/21 (Mon) 本購入




 ついに買ってしまいました。
 

戦國遺文―佐々木六角氏編戦國遺文―佐々木六角氏編
(2009/05)
村井 祐樹

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 18900円也!でも後悔はしてませんよしませんとも!
応仁~天正までの六角家の文書がつまってるなんて……暫く夕飯が白米にふりかけの生活になりますが、良いんです。義弼と長政の関係を考えると、凄く、叫び倒したくなります(…) 九月一日に長政が切腹して、九月四日に、義弼は籠もっていた鯰江城を立退き開城ですから、長政が切腹してから三日間は踏ん張っていたんだなぁと。同じ年の七月から、佐久間信盛さん、丹羽さん、蒲生賢秀、柴田さんに攻められ、三ヶ月はもったということでしょうか。というか、攻め手の顔ぶれすごいな……賢秀は良いとして(多分、籠城兵の殆どが六角旧臣か甲賀衆だったでしょうから、賢秀さんがいれば内通や降参する人が出てくると考えたんじゃないかと思われ)柴田さんに佐久間さんに丹羽さんて。野洲の戦いといい、鯰江城での籠城戦といい、義弼は良く佐久間さん+柴田さんコンビと戦いますね。ことごとく負け続けてるわけですが← 
 もしも朝倉宮増丸に協力して、朝倉氏の再興計画に携わっていた佐々木源兵衛という人が義弼のことだったとしたら、せ、切な過ぎる……。佐々木源氏の人は、佐々木佐々木呼ばれててえらい紛らわしいです。どこの佐々木さんなのか官名で判断しなくちゃならないとか!とにかく、鯰江城を開城したあとも、義弼と義賢は裏で色々と動いていたと思われる痕跡が残っているらしいです。高盛ちゃん(義賢の次男)が甲斐の武田氏を頼って、武田滅亡後に色々アレな目にあったりもしていますから、勝頼に織田のこと何とかしてよ!と頼んだりしてたのかもしれません。北畠にも再興運動があったようで、あんまり表には出てこないことを探ってみると、何か面白いことが分かりそうな。義賢が能登辺りにいた痕跡(肖像画が残されてる)があるのを見ると、やっぱり一揆と結ぼうとしていた…とかでしょうか。この辺は、要勉強な気がします。
 抵抗を続ける義弼の脳裏には、長政のことが残り続けていたら良いのにと、結局そんな落ちになってしまうんですが!そんなこんなで、本が届くのを正座して待っていようかと思います。

 
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