何か吐いてみる//
乙式、主に暇人干身がだらだらと萌えに任せて吐き出す場所です。創作戦国について主に吐き出しています。同人、腐要素、注意報常時発令中です。
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2009/10/27 (Tue) 水面下の兄弟


 そういえば冬の陣だなぁと気付きまして(…) 絶賛虫食い中の冬の陣年表を見てみたら、そろそろ和睦の話し合いが水面下で進んでる頃合いですね。まだちゃんとした一戦をしていない状況で治純が和睦の話し合いをするために城内へ出入りをしていますから、恐らく、本当の本当に水面下で続けられていた和睦なのではないでしょうか。……治房辺りに知られたら、実の兄弟だろうと治純に何をするか分からん← 知っているとしたら、秀頼・茶々・治長・有楽辺りがぱっと浮かびます。ただ、治長の何でも又兵衛に相談しちゃう癖を思うと、又兵衛も何か知ってそうな気がする。治長、何でもかんでも又兵衛に相談しすぎ!重成と糺は、知っていそうで知っていなさそうな。和睦の使者として治純が出入りしていても、治長が池田さん家へ内通を促す使者を送っていたりするので、まだ十月の段階では、大坂方は和睦をするつもりはなかったのかなぁと。前の記事にも書いた気がしますが、豊臣へ味方するよう促した書状を、諸将がことごとく家康へ渡していた、という現実を治純からつきつけられた時、治長は和睦をする決意を固めたんだと思っています。確か十一月の末頃、でしたか。
 治長治純兄弟の葛藤を妄想してしまうと、あまりの居た堪れなさに転がりたくなるこの衝動…!(病気です) この兄弟、仲が良かった気がするんです。慶長十九年(冬の陣が起こる年)の六月、家康へお礼をしに駿府へ下った治長が宿として使ったのは、治純の屋敷ですし。治長が滞在中は、日がな一日治純がべったりくっついているものだと信じて疑わない私がいます(治純ニート疑惑)(…) 
 しかし、治純が夏の陣の後どうなったのかいまいちわからない罠。とある本で、治長の弟だから!な理由で治純まで処刑されたって書いてあったのですけども、さすがにいやいやいやいやです。もしそうだったら、一体どのくらいの徳川方の人が処刑されちゃうの!でも、寛永年間に徳川家へ諸家が提出した家系図に治純の系統と思しき大野家が見当たらないわけでして……もしかしたら、元和~寛永の間に、改易されたのかもしれません。家康からは可愛がられていたようですけども(少々寵愛とか何とか書いてありましたので) その家康が死没した後は、どうなるか分かったもんじゃないような。元和~寛永の間に改易された旗本の一覧とか、探したら見つかったりしないかちょっと期待してみます←

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