何か吐いてみる//
乙式、主に暇人干身がだらだらと萌えに任せて吐き出す場所です。創作戦国について主に吐き出しています。同人、腐要素、注意報常時発令中です。
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2009/11/28 (Sat) 六角の姫


 『慶長日件録』に漲りが止まりません!舟橋秀賢さんの書いた日記なのですが、秀賢とその妻(六角義賢の娘)の仲睦まじい様子にによによします。六角の姫たちで、一番幸せになれたのは秀賢に嫁いだ姫だったんじゃないのかな…とすら思ってしまいました。総じて不幸率が高すぎるんです六角の姫達は!何もあんなに悉く嫁ぎ先が没落しなくても良いじゃない……。一番壮絶な人生を歩んだのは北畠具教に嫁いだ娘かなと思ってます。三瀬の変は本当に、凄絶です。どんだけ死んだんだあれで。義賢の子供たちは、義弼、高定、畠山義綱室、星合具親室、舟橋秀賢室の五人かなぁと思っていたんですが、更にもう一人、女の子がいた模様です。『慶長日件録』に、秀賢室のお姉さんとして佐久間久右衛門室という人が出てきまして。秀賢の室は義賢の娘ですので、自然とその佐久間久右衛門という人の妻は義賢の子供になるなぁと。ただ問題は佐久間久右衛門という名前の脇に「安政」と注記がありまして。ちゃちゃーとネットで検索をかけてみましたら、勧修寺晴豊の娘が継室と書かれていました← うーん、どうなんでしょう。佐久間安政さんは柴田さんの甥っ子に当たる人なので、義賢の娘を娶っていたのなら色々妄想が膨らませられるのですが。何度義賢は柴田さんに煮え湯を飲まされたことか!(…)
 安政さんの方も調べてみないと、ここら辺は何とも言えそうにないです。ちなみに、秀賢室であり義賢の娘である姫の没年は1616年の8月8日で、法名は長寿院清月妙円というそうです。円姫と勝手に脳内で呼んでます(お前) 秀賢の死没が1614年ですから、結構その後すぐに亡くなったわけですね。
 それから、義弼の出家後の名前である玄雄も出てきましたよ!一回だけ!← 慶長十年に秀賢さんが秀頼へ法律やら何やらのお勉強を教えに大坂まで行ったついでに、有楽、玄雄(義弼)とかと御飯食べてました。しかし名前出てくるのがこの一回こっきりとは……忠興の名前は無茶苦茶出てくるのに!何故だ!本当に、えらい忠興と交流してます。秀賢さん。やっぱり親戚だったからなのでしょうか。二人とも耳聡いですし、その辺りで気が合ったのかも。どちらにせよ、慶長十年の段階までは、義弼は大坂城にいたってことで良いんですかね。慶長十七年に伏見で死没としか書かれていないので、いつごろ秀頼の元を辞したのかいまいち分かりません。妄想で補えと、そういうことか…!(違う)

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はじめまして 

こんにちわ、はじめまして。
六角義賢(承禎)の息女たちの動向、興味深く読ませてもらいました。
六角氏の場合、たしかに息女の嫁ぎ先は悉く滅亡したり没落したりしてて(父や兄弟も流転を続けてましたし)、舟橋家に嫁いでいる息女は、他の兄弟姉妹に比べると、幸せな生涯だったのかもしれませんね。

2009/12/02 01:03 | じろー三郎 [ 編集 ]


Re: はじめまして 

 初めまして!
六角家の娘たちの記事を読んで下さり、有難う御座います。本当に、これでもか!これでもか!と没落滅亡街道を転がり落ちていく家ばかりで、姫たちの事跡を追えば追うほど、あああああ…な気持ちになっていってしまいます……。なので、舟橋家に嫁いだ娘の生活を少しだけ垣間見て、ようやく安堵の息がつけた気分です。六角家の娘たちの動向をこれからも追っていきたいと思いますので、是非、またいらして下さい。

2009/12/02 02:18 | 乙式@干身 [ 編集 ]


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