何か吐いてみる//
乙式、主に暇人干身がだらだらと萌えに任せて吐き出す場所です。創作戦国について主に吐き出しています。同人、腐要素、注意報常時発令中です。
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2010/01/19 (Tue) 義賢のお母さん


 六角義賢が正妻の子じゃないかもしれない、という可能性に、何かが止まらなくなりました(…)
滋賀県高島町に鵜川四十八体石仏というのがあるのですが、これは義賢が1553年に、亡き母の追善のため作らせたものだと伝わっているそうです。ということで、定頼様の正妻であろうと思われる呉服様の没年が1553年以前なのかと言うと、そうでもなかったりします。1557年に、本願寺証如が義賢宛てに、慈受院という人が亡くなったことへのお悔やみ状っぽいものを送っていたりするからです。この慈受院さん、恐らく義賢の「斎藤ありえねぇんだけど!」書状に名前の出てきた慈寿院さんと同一人物かと思われます(寿の字がちょっと違っていましたが…) 義賢がその書状の中で、自分の名前の上に慈寿院殿と書いていたり、「慈寿院殿と私を前にしながら、斎藤家との縁談を進めるなど言語道断である」ということも書いていたりするので、六角家中にあってかなり高い位置にいる人なのではないかなぁと。おまけに『戦国遺文六角氏編』では、脇に「六角定頼室」との注釈も入っているので、これほどまでに敬われた扱い方をされている慈寿院さんが定頼様の正妻という可能性は大いにあると思います。ということで、義輝元服の時に、足利将軍一家の接待をしたりしていた呉服様=慈寿院なのではなかろうかと。
 ですが、慈寿院さんが亡くなったのは証如の手紙によると1557年です。1553年に、義賢が追善したという義賢の母親は何なのかということになると、その人は定頼様の別妻だったんじゃないかなと思います。1553年に義賢が追善供養したという言い伝えそのものが間違っている、という可能性も無いとは言えませんが…。でも、定頼様には男の子が義賢一人しかいませんし、別妻の子でも、という状態だったのかも。
 そんなこんなで、義賢が正妻の子ではなく、別妻の子だった、という具合で妄想を推し進めていくと、何かこう慄きが← 定頼様の時代の六角家は、将軍に意見すら言える名門ばりばりの家でしたから、別妻の子でありながら定頼様の嫡男であるということで滅茶苦茶肩肘張ってはってたんじゃないかなぁ、やら考えてしまいまして。同じく、ストレートに家督になれる立場ではなかった久政と、妙なシンパシーを感じ合っていたらキュンときます(お前)
 ……晴元室が呉服様を母親とした娘で、義賢と同じ年に生まれていたりしていたら、うっかり義賢→←晴元室な構図を妄想したくなってしまいます。古事記を読み終わってからというもの、兄×妹という組み合わせにときめきを隠せません(…) 速総別王と女鳥王の兄妹夫婦は古事記の最萌兄妹でした。あ、でも沙本毘古王と沙本毘賣命の兄妹も捨てがたい…!

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