何か吐いてみる//
乙式、主に暇人干身がだらだらと萌えに任せて吐き出す場所です。創作戦国について主に吐き出しています。同人、腐要素、注意報常時発令中です。
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2010/01/25 (Mon) 双璧の一


この記事で、三雲賢持は『寛政修重諸家譜』を参考に、1560年没ということで!なことを書いたのですけども、どうやら1566年で合っていたようです。『戦国遺文 六角氏編』に、1566年の書状で、賢持の戦死に関わるものが幾つか載せられていたので。1560年の戦死なら、義賢の采配ミスということになりますが、書状を読むに義弼が指揮をとっていた1566年の戦いで賢持は長政を相手に、戦死したようです。
 それから、定頼様の下ぼryげふんごふん。定頼様の重臣の一人である進藤貞治について、検索をかけてみたら、1551年没と書いてあったのですが、せ、1552年没じゃなかったのか…!?1552年4月2日の書状で、進藤賢盛(貞治の息子)が大徳寺へ宛てたものがあります。内容をかいつまみますと「父が逝去したことで、香典として百疋を下されましたこと、忝く思います」という感じでした。ということは、1552年に貞治は死没したんじゃないのかなぁと。ちなみに、1552年は、定頼様が死没した年です。1月2日に亡くなっています(西暦に直した丁度十年前の同月同日に亮政が亡くなっているのには、もうはわわわとしか言えない)
 そこでちょっと妄想をしてしまうと、追い腹?という気もするようなしないような……。ただ、1551年の12月22日に、本願寺は貞治ではなく、息子の賢盛宛てに手紙を出しているので、この頃には貞治は死没していて代替わりしていたと、言えるような気もしますし……わ、分からん!1551年の12月16日付の本願寺からの手紙は、貞治宛になっているので、少なくともその近辺までは生きていたとは思います。
 なんにせよ、もしかしたら定頼様って下手したら貞治を一番信頼してたんじゃね?とすら思えている身としては、もしも追い腹だった場合、絶句するしかないのですけれども(…)

 絶句といえば、本願寺証如さんが義賢へ「霜台(定頼様のこと)が御逝去されたことに、言語を絶しています」ていうとった。どんだけショックだったの。

 あ!あとですね、行清本、無事製本もすみまして、31日のイベント当日に持っていけそうです。これで譜代本、大坂本、行清本の新刊三冊が揃いました。譜代本は、おまけとして無理やりついてきます(…) こ、こうでもしなくちゃ需要が…!

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