何か吐いてみる//
乙式、主に暇人干身がだらだらと萌えに任せて吐き出す場所です。創作戦国について主に吐き出しています。同人、腐要素、注意報常時発令中です。
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2010/04/29 (Thu) 購入本


 ノリとテンションで登録した戦国モバイルの戦の戦況報告のメールが、絶賛夏の陣中で落ち着きません(…) きっと五月六日は、ひっきりなしにメールが送られてくるんだろうなぁ……重成討ち死にとか、又兵衛討ち死にとか、兼相討ち死にとかメールで送られてくるんだろうなぁ……お、落ち着かねぇ! 七日は更に落ち着いてられませんし!ずっと携帯片手にそわそわしてそうです。
 夏の陣が近いからというわけではありませんが、注文した『関ヶ原と大坂の陣』という本が届きました。『畿内・近国の戦国合戦』と同じシリーズで出版されている本です。出版年月日的に、新しい研究内容に基づいた論が読めるかなと。興味深かったのが、方広寺の鐘銘問題についてです。徳川からのいちゃもんだよ!という通説が通っておりますが「豊臣方にも非があるんじゃね?」ということが書かれていました。その項を読むと、確かに、全面的に徳川からのいちゃもんとも取れないなと。清韓さん自身が「国家安康、君臣豊楽」の一文に、隠しの意として家康と豊臣の名を使ったと証言しています。ただし、呪詛するつもりではなく、祝いのつもりとして使ったとのこと。しかしながら、徳川方が問題としたのは呪詛がどうというよりも、徳川方に無断で「家康」の諱を用いたことだそうです。使うなら使うで、一報すべきだろうと。また、豊臣の場合、秀吉や秀頼の諱を用いていません。このことから、何か隠された意図があると勘ぐられても仕方が無いように感じます。ただし、林羅山が文中にある内大臣の唐名である「右僕射」を取り上げて「これは家康様を討つという意味の文章だ!」という、ちょwwwまwwwとなるようなことを言ったりしているので、徳川方にとっても渡りに船な出来ごとだったのかもです。
 そして気になるのが、この鐘銘も含めた方広寺再興の奉行が片桐さんだということです。片桐さんが、果たして清韓さんから鐘銘の案文を見せて貰っていたのか、秀頼や茶々が鐘銘の文面を知っていたのか、結果如何で色々と勘ぐれてしまいそうです。

 同じ本の道明寺の戦いについての項目で、後藤隊の残党と合流して戦った、と書かれた薄田さんにときめいてしまいました。又兵衛の兵を、薄田さんが指揮して最期まで戦ったんだなぁと思うと…はい、胸が苦しくなります← 薄田さんと又兵衛は仲が良かったに違いない!と勝手に思い込んでいる身からしますと、尚。又兵衛の所に乗り込んで、又兵衛の郎党達と酒盛りしてれば良いじゃない。
 七日の戦いについてもさらーと流し読みしまして、改めて勝永、チート過ぎます。チートだとは分かっておりましたが。あと、大怪我して秀頼のもとへ帰ってくる治長にはぁはぁしてしまいました(…) それにしても、1649年になっても、生きている説が浮上して幕府が大騒ぎする治房ってどんだけ危険人物扱いされてるの。

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確かに鐘銘事件は豊臣方の挑発がボーダーライン越えたせいだよと言われるようになりましたね。
当時の諱の重要性を考えると配慮が足らない。
この時点で豊臣方に味方する大名がいると考えていたかもしれません。

2011/02/08 18:10 | [ 編集 ]


Re: タイトルなし 

> 確かに鐘銘事件は豊臣方の挑発がボーダーライン越えたせいだよと言われるようになりましたね。
> 当時の諱の重要性を考えると配慮が足らない。
> この時点で豊臣方に味方する大名がいると考えていたかもしれません。

 コメント有難う御座います。返信が遅れてしまってすみません!
 豊臣方からの挑発ですか………この鐘銘事件については、淀の方と秀頼の思惑とは違う何かが動いていたような気もしています。この一件での豊臣側の非は、家康の諱を無断で使用してしまったということです。この諱使用が故意であったことは、清韓自身も認めています。「祝いの意味をこめて諱を盛り込んだ」との弁明をしていますが、どちらにせよ、諱を犯していることに変わりありません。問題は「清韓は、鐘銘文の案文を淀の方と秀頼に見せたのか?」という点であると考えています。お恥ずかしながら勉強甚だしい身ですので、寺社の再興などにおける鐘銘文の案文などを、施主に提示するのか、それとも奉行止まりとするかは存じ上げないのですが、確実に奉行は目を通しているのでは?と考えております。方広寺再興における奉行は、片桐且元でした。鐘銘事件発生時、且元が豊臣家の急進派から激しい譴責を受けることになるのは、周知の通りです。これらの急進派からの譴責を見るに、鐘銘文は奉行である且元が目を通しただけで許可を出し、淀の方や秀頼の方へは回されていなかったように思うのです。もちろん、状況からの推察に過ぎませんので、確たる史料による証拠が挙げられるわけではないのですが……。
 鐘銘文が問題になった際、林羅山が鐘銘文内にある「右僕射(右大臣の唐名:家康のこと)」を取り上げ「家康様を射るという底意がある」などとあげ足を取っております。これらを見てしまうと、やはり、徳川側も絡んでいたのでは?と、考えてしまいます。あれこれ長々と書いてしまってすみません。清韓文、片桐且元、徳川側、この三者が何がしか絡んで、鐘銘事件へ発展したのでは、というのが私の考えです。淀の方と秀頼の罪は、且元へ丸投げにし過ぎていたことではないかと。そう考えると、鐘銘事件の際に秀頼の取る手が後手後手であったことも納得出来るような気がします。
 史料の端っこを噛んで、あれこれ妄想してみただけでの考えですので、それおかしいよ、等御座いましたらすみません!
 コメント有難う御座います!

2011/03/23 22:08 | 干身@乙式 [ 編集 ]


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