何か吐いてみる//
乙式、主に暇人干身がだらだらと萌えに任せて吐き出す場所です。創作戦国について主に吐き出しています。同人、腐要素、注意報常時発令中です。
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2010/05/30 (Sun) 義演さんの日記とか


 大坂夏の陣ぷち企画に、治房の話をアップ致しました。大変お待たせしまってすみません…!あと9つ、13日までに出来る限りあがいてみようかと思います。
 弥一郎=治房
 権之介=糺
 千十郎=兼相
 三助=重成
 弥八郎=治胤
 市吉=治純 
 となっております。糺の権之介の他は、しっかりとした確証のある字ではないので、ご注意下さい。治房の弥一郎と、治胤の弥八郎は、兄である治長の字が弥三郎である可能性が高いことから、勝手に予想して命名しました。兼相の千十郎は、秀吉の行軍に名前のあった「薄田千十郎」から。重成の三助は、重成養子説で実父とされる、佐々木三左衛門から取りました。治純の場合は、字の市兵衛を幼名に直したら、もしかしたら市吉かなと←
 まだふんぎりをつける前の糺なので(…) 男らしい言葉づかいにしたのですが、書きながらめちゃくちゃ違和感でした。ご、語尾を「~よ!」に修正したい!凄くしたい!←


 そういえば、この間『義演准后日記』を読んでみました。今まで、大日本史料集に断片的に記載されていたのは読んだことがあったのですが、しっかりと読むのは初めてで、うきうきしながらページをひらいたら早速「太閤御所御不例」の一文とご対面で崩れ落ちました。殿下いきなり危篤ですか…!「太閤御所」という呼び方にちょっとときめいちゃったけど!
 秀吉が意識を失うことが多くなってからは、ほぼ毎日義演さんは病平癒祈祷を続けていて、切なくなってしまいました。秀吉の体調が悪化したということを聞くたびに「私には祈ることしか出来ない…」と書いてあるのとか、もう、反則です。秀吉が死去するのは慶長三年の八月十八日ですが、義演さんにもその死は隠されていたようで、八月十八日から四日後くらい(うろ覚えですみません)の記事に「太閤様の仰せで寺領が加増されることになった、というお達しがあったよ!」とあって、うわぁあああ……と。ただ、いつ頃義演さんが秀吉の死を知ったのかは、いまいち分かりませんでした。いつの間にか、日記に「太閤様の御遺言で~」ということが書かれるようになったので、その間に知ったのでしょうけども。あと、豪が醍醐の花見に参加した人達の和歌が書かれた短冊の写しを欲しがっていて、ちょっときゅんと。醍醐の花見には、そういえば豪は参加していなかったんですよね。義演さんは豪の病気平癒を祈願していたり、秀家の無事を豪の依頼で祈願していたりするので、豪と親交があったのかなぁと。
 それから、この義演さんの日記のせいで、私の政宗イメージ崩壊にとどめが入りましたなんてことしてくれたんだ義演さん。私が最初に抱いてた政宗のイメージは、秀吉大嫌いないっそ猿死ねば良いのに、だったんです。それが段々段々と、アレ、ちょっとおかしいぞこれ。と思うような逸話に出会いつつ(大投げの花入の逸話・ねねと夏の陣終わってもメル友だった件・秀吉の遺品分けで貰った刀を後生大事に持ってた・関ヶ原直後に秀頼が今後も無事でいる方法を必死に模索して書状を徳川家へ送ったりもしたけどスルーされた件・秀吉から、利家と家康もくるお泊まり会に呼ばれて夜明けまで語り合ったんだぜ!という話を後に小姓へ自慢した件)義演さんの日記で、とどめがどーんと。この人、秀吉の病平癒を二回も義演さんにお願いして、義演さんから「結願したから大丈夫、安心して!」とか言われてるんですけど……。豊臣家へのご機嫌とり?という可能性も、勿論捨てるわけにはいきません。しかし、豊臣家からの公式依頼の他は、大名では政宗しか義演さんに病平癒の祈願を依頼していなかったので、少なくとも私の中で政宗は隠れ秀吉スキーに認定されました← 

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