何か吐いてみる//
乙式、主に暇人干身がだらだらと萌えに任せて吐き出す場所です。創作戦国について主に吐き出しています。同人、腐要素、注意報常時発令中です。
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2010/11/22 (Mon) メモリアル梵舜


 いつもお世話になっております紀伊様の「萩の御前」様において纏められております史料の項目にて、思わず感嘆してしまった事項がありましたので、紹介させて頂きます。

・冬の陣が終わった後の1月に治長が上洛していたことは知っていたのですが、具体的に何をしていたのか分かりませんでした。しかし『舜旧記』によると、治長は養源院(茶々が父・長政の供養の為に建立した寺)を訪れているそうです。そこで、梵舜とも会っているそうな。
・幸村の妻(大谷さんの娘)が、浅野長晃に捕らわれた際、秀頼から賜った来国俊の脇指を献上している(つまり、大谷さんの娘が直々に秀頼から賜ったか、幸村が秀頼から賜ったものを預けられたかのどちらかだと思われ)
・夏の陣後の豊国社(ぶっちゃけ梵舜さん)への嫌がらせの数々。道を塞がれるわ、勝手に松を刈り取られてしまうわ、散々です。
・養源院にて行われる、茶々と秀頼の一周忌法要。仏事を行ったのは「御台」だそうで、寧々なのか江なのか不明だそうです。
・梵舜さんの、豊国社再興への執念。
・神龍院内豊国神社鎮守社(豊国社の敷地没収!やら言われてしまった梵舜さんが、自前の神龍院の敷地内へ、豊国大明神の御神体を移してこっそり祀った社)への、八条宮智仁親王(秀吉猶子)の参詣。
・『舜旧記』曰く、徳川和子(後水尾天皇妻、秀忠と江の娘)が懐妊した際に行われた着帯の儀において、用いられた神具のことごとくが、豊国社のものだったそうな。
・寛永元年(1624年)に黒田官兵衛の嫁さんが、寧々に会いに行ってたり
・かなり長く続いている梵舜(つまり豊国社)と龍子さんの付き合い。神龍院内豊国神社鎮守社になっても続いてます。
・寛永4年(1627年)に豊国社が再興される夢を見る梵舜さんに、涙腺がたがたです。
・内藤玄春という人の妻であったらしい刑部卿局(千の乳母)
 この人には内藤長秋(木村重成の与力。若江の戦いで戦死。重成の妹婿という説もある。享年21歳)の母親という説もありますが、もしも本当ならば、長秋の父親はこの玄春さんという可能性もあるんですね。

 勝手にすみません!
 和子さんには、豊国大明神と淀姫神様両方の加護があるような気がしてなりません(…) しかし、官兵衛の嫁さんは、寧々とどんな話をしたんだろうなぁと。

 

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ありがとうございます。 

こんにちは!いつも楽しみに拝見しております。

この度は私の拙いまとめをご覧いただき、ありがとうございました。
こんなにがっつり取り上げていただいておきながら、間違ったことを書いていたらどうしよう(大汗)と見返しているのは内緒です…w

個人的に、梵舜さんの豊国社破却にまつわる動きはもう、本当に涙ものですよね…。家康のところに足しげく通って懇願したり、取られる相手である妙法院に贈り物をしつづけていたり…すごく一生懸命さがひしひしと伝わります。

大坂の陣が終わっててから梵舜さんはほぼ毎月八日に塩を断って薬師観音に祈祷していたり、いろんな所へ参拝しまくっているのですが、
某サイトさんでこれが翌年の家康死去以降はぱったりやんでいるので、梵舜さんが祈祷していた内容はは………というのを見て、本当にそうならば怖いやらすごいやら…!と鳥肌が立ってしまいました(もちろん呪詛したなんて日記には書いていませんが)。慌てて舜旧記を見直したのはいうまでもありません。
(「吉田兼英」でgoogle検索したら一番上に引っかかるサイトです)

幸村さんの奥さんが来国俊&金銭を献上したのは、史料に「献上」と書いてあったのでそのままにしましたが、これはおそらく捕まった時に没収されたんでしょうねえ。

養源院での一周忌法要は、史料綜覧ではなぜかお寧さんになっていましたが、これはお江なんでしょう。実は卒論を書いたときにこれをお寧さんの解釈で書いてしまったために、消すに消せないというか…消せよ、私orz

福田先生の新刊で、和子はおごうの実の娘ではないとされていましたが、その後の長政追善供養や女房に浅井系の方が何人かいらっしゃることがどうしてもひっかかっています。
ぜひ、干身さんにも読んでいただいて感想を言い合いたいです。
…ときに干身さんはtwitterなどやっていらっしゃいませんでしょうか?(skypeに続いて勧誘すみません…)

2010/11/26 16:28 | 紀伊 [ 編集 ]


Re: ありがとうございます。 

返信が遅れてしまってすみません!コメント有難う御座います。
萩の御前様の「史料」の項目を読んで、これは是非とも紹介しなくては!との衝動に突き動かされてしまいまして…勝手なことをしてしまって、大変申し訳ないです。

梵舜さんの必死さは、本当に涙ぐましいですよね。そうまでして豊国神社を守ろうとしてくれたことに、胸が締め付けられます。しかしながら、じゅ、呪詛ですか(ごくり) 私も『秀吉の「首」はどこに消えたか』という本にて、梵瞬さんは家康のことを呪詛していたんじゃ?という話は知っていたのですけれども、改めて紀伊様からおっしゃられると、生々しさが倍増ですね……。まだ呪いなどのものが信じられていたあの当時なら、本当にやっていそうで怖いです。家康の死後、ぱったり止んでいるというのも、怪しいというか何というか……。

確かに取り上げられたという方が、献上よりもしっくりきますね。幸村は、秀頼から賜った来国俊を無事城外に出すために嫁に託したのかなと、ちょっと考えてしまいました。あまり幸村が秀頼に忠誠を尽くしてるイメージは無かったのですが(どちらかというと、自分の名誉の為だけに戦っているような)紀伊様から来国俊のお話を聞いて、幸村も秀頼に忠誠心を抱いていたのかなと、初めて思えました。……単なる感想ですみません←

いや!分かります!一周忌法要を行ったのが寧々だったら素敵だなと思いますし!史料綜覧の注を書いた人は、督が一周忌法要を営むはずが無い!と思って、寧々にしたんでしょうかね。

先ほど、紀伊様から紹介されましたので福田千鶴先生の『江の生涯』を読んでみました。通説なんぞ知るか!といった福田先生からの新説は、いっそ爽快でしたが(笑) 疑問も、確かにありました。家光は督の子供ではないんじゃ?と昔から思っていたので「家光の母が督ではない」との説には納得することが出来ました。しかし、やはり和子の生母ではない、というのは引っ掛かりますね。浅井の血筋だからこそ、長政の追善供養に関わったり、養源院を保護したんじゃ?とも思えますし……。京殿という督の女房に関しましては、恥ずかしながら不勉強でして、福田先生の書かれたことを、ふーんと読むしかなかったのですが、近江局という人が海津さんと饗庭さんの妹という内容には、目玉がぽーんと(…) 豊臣が滅亡するまでは浅井の人達は茶々姫の元に在り、豊臣滅亡後に、督に保護された、というイメージだったので「督が招き入れた」という表現は、何だか腑に落ちなかったりします。
実は私、流行から百歩ほど離れた場所におりまして、流行ってるなぁとは思いつつ、ツイッターというのをやったことがないんです。一体どういうシステムなのかも、良く分かってなry せっかく誘って頂いたのに、すみません!

毎度毎度、紀伊様にはお世話になりっぱなしですが……これからも、是非ともよろしくお願い致します!

2010/12/03 01:07 | 乙式@干身 [ 編集 ]


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